服を買いに行く服と学ぶための学と金を稼ぐ金がない

「服を買いに行く服がない」の亜種である、

「学ぶための学がない」と「金を稼ぐ金がない」に遭遇したことがある。

前者は高校生のときで、後者は社会人になってから。人が前進するとき、最初の一歩が一番難しい。0→1とはつまりイノベーションだからね。

 

服を買いに行く服がないというのは、何も全く衣服を持っていないというわけではない。服を買いに行く(外に出て服屋に入る)には、それ相応の常識的なユニフォームが必要なのだが、そのユニフォームがないので試合に参加できないということだ。(厳密には初期アバでも試合に参加できるルールだが、見えない何かが自分を抑えつける)

 

高校生になってから、本当に全く勉強をしなくなった。得意だった数学も、公式がわからなければ問題は解けない。唯一現代文だけが自分を人間として認めてくれていた。課題も全く出さなかったので、もちろん、何度も呼び出されては怒られて、居残りで提出するように言われた。

一度、真面目に勉強をしようかと思い立ったことがあるが、ものの数分で挫折。数学だったが、解答を眺めながらもっともらしい間違いに赤で訂正を入れて、勉強した痕跡を描いた作品を提出した。わかりやすく言えば、方程式を解くのに、掛け算九九を覚えていない状態だったということだ。目の前の敵を倒すのに、レベル上げはもちろんのこと、3つ前の村のボスから倒していかねばならなかった。その程度の学力だったので、全力で向かった模試(200点満点)の問1から解けずに0点を取ったこともある。

人間、何かを学ぶためには、それを学ぶための学が必要なのだ。
学校の勉強は何の役に立つのか?というお決まりの質問には、他の何かを学ぶために役に立つという答えが自分の中に出てる。

 

職場は徒歩で45分の場所にあった。京都駅をまたいで、烏丸通りを上にまっすぐ歩けば出勤できる。だいたい歩けば解決する、京都のそういうところが好きだ。
昔から、「貧乏とは、定期券を買えない人のことを指すのではなく、あえて買わない人間のことを指す。」と言われているが、これに納得できる人は少ないだろう。

こいつこそが「金を稼ぐ金がない」である。定期代で定期券を購入せずに、食費や別の支払いに回して、交通費を使わずに通勤していた。お金を稼ぎに仕事に行くのに、その足代がなくて歩いて出勤するという、なんともひどい状態であった。

1万と少しの定期代をうまく捻出して、きちんと回転させるまではとてもとても辛い思いをしたのを覚えている。(会社が悪は悪くない。家庭の事情である。)

 

「資源を得るための資源がない」という状態に遭遇することは少なくない。自分の目の前にも、今まさに「文章にするための一文が書けない」がいる。(うまい例えが見つからなかった)

ものすごく嫌いなフレーズに

「まぁ、これって鶏卵(※)じゃないですかぁ?つまりキメの問題だと思うんですよねぇ?」

というのがある。前職のキメない上司が好んでよく使っていた言葉ではあるが、今回はポジティブな意味で引用したい。結局のところ、0→1というのは非常につらいフェーズではあるが、覚悟によってクリアできる問題、つまりはキメの問題なのだ。

※鶏卵→にわとりたまご と読んでいた。「鶏が先か、卵が先か」の略。けいらんではない。

 

この倒し方は3つ見つけていて、

「服を買う服」→人の目を気にするな。誰もお前を見ていない。

「課題のための学」→やれることからやれ。最初から完璧にはなれない。

「稼ぐための金」→耐えれば時間が解決する。最初は辛抱。

という、マインドセットでしかないのだけど、これをクリアできないようならそもそもそれまでの熱意だということだ。結局、目的を達成しなくて良い言い訳を探しているにすぎない。

 

結論、服がなくても服は買えるし、学がなくても課題はできる。金がなくても金は稼げるんだけど、”ない状態”がとても辛い。それはわかる。ただ、第一歩は所詮一歩でしかないことを理解しなければならない。チュートリアルをクリアしないとゲームは始められない。そもそも頑張ることですらないのだから。

 

こうやって文章だって書けた。質にこだわらなければ、どうとでもなるのだ。

/文章を書くためのチュートリアル

時間はお金で買えるのか?

「時間はお金で買えると思う?」

個別指導の塾でアルバイトをしていたとき、算数の苦手な子に算数の楽しさを伝えようと思って聞いたことがある。
彼は、んーと数秒考えたのち、「買われへん。売ってへんし。」と答えた。

じゃあ、と続けて、もう一つ質問をした。

「すぐそこのコンビニでアイスを買えば120円で、100m先のスーパーでアイスを買うと100円。君はどっちでアイスを買う?」

「先生、そんなんスーパーに決まってるやん」

これは即答だった。さすがは生粋の大阪人で、安い方が正義だという答えがDNAに刻まれてる。さて、最初の質問の答えはこの時点で出た。時間はお金で買えるものなのだ。

コンビニとスーパーの距離100mは、歩けばだいたい100秒ぐらい。100秒かけて20円安いものを買うということは、裏を返せば20円で100秒早くアイスを買えるということ。実際は時間に加えて歩くエネルギーも使っているから、それらが20円で買えるというのは非常にお得。

と、こんなに遠回りな説明をしなくても、ソシャゲの課金システムを知っていれば時間が買えることは明白である。普段、意識している人は少ないと思うが、電車やタクシーなどの交通手段や、家事代行サービスなんかも時間を買っていると言って間違いではない。「便利」という言葉は、なんらかの工数を削減し、時間が短縮されることを指している。

だとすれば、お金を渋ることで損していることは多々あるのではないか。何をしていても何もしなくても時間は過ぎる。これは変えようがない。しかし、お金を使うことで、無駄をなくすことはできる。そう考えるようになってからは、時間に対してだけでなく、物やサービスに付随する付加価値に対しても考えが及ぶようになってきた。何らかを購入する際は、短縮してくれる時間、それが与えてくれる幸福感、製造過程にかかっている人件費などが自然と浮かんでくるようになった。それらがイメージできることとできないことは天地の差があって、今では、それができない人ほどクレーマーになりやすいんじゃないかという偏見を持っている。

 

「安くで買えた方が自慢できるし、おかんに褒められる」

 

時間はお金で買えるけど、自信や承認欲求は努力の先にある。豊かさを求めるならば、実利にとらわれてはいけないのだ。教える側は、教えられる側以上に学びがある。