時間はお金で買えるのか?

「時間はお金で買えると思う?」

個別指導の塾でアルバイトをしていたとき、算数の苦手な子に算数の楽しさを伝えようと思って聞いたことがある。
彼は、んーと数秒考えたのち、「買われへん。売ってへんし。」と答えた。

じゃあ、と続けて、もう一つ質問をした。

「すぐそこのコンビニでアイスを買えば120円で、100m先のスーパーでアイスを買うと100円。君はどっちでアイスを買う?」

「先生、そんなんスーパーに決まってるやん」

これは即答だった。さすがは生粋の大阪人で、安い方が正義だという答えがDNAに刻まれてる。さて、最初の質問の答えはこの時点で出た。時間はお金で買えるものなのだ。

コンビニとスーパーの距離100mは、歩けばだいたい100秒ぐらい。100秒かけて20円安いものを買うということは、裏を返せば20円で100秒早くアイスを買えるということ。実際は時間に加えて歩くエネルギーも使っているから、それらが20円で買えるというのは非常にお得。

と、こんなに遠回りな説明をしなくても、ソシャゲの課金システムを知っていれば時間が買えることは明白である。普段、意識している人は少ないと思うが、電車やタクシーなどの交通手段や、家事代行サービスなんかも時間を買っていると言って間違いではない。「便利」という言葉は、なんらかの工数を削減し、時間が短縮されることを指している。

だとすれば、お金を渋ることで損していることは多々あるのではないか。何をしていても何もしなくても時間は過ぎる。これは変えようがない。しかし、お金を使うことで、無駄をなくすことはできる。そう考えるようになってからは、時間に対してだけでなく、物やサービスに付随する付加価値に対しても考えが及ぶようになってきた。何らかを購入する際は、短縮してくれる時間、それが与えてくれる幸福感、製造過程にかかっている人件費などが自然と浮かんでくるようになった。それらがイメージできることとできないことは天地の差があって、今では、それができない人ほどクレーマーになりやすいんじゃないかという偏見を持っている。

 

「安くで買えた方が自慢できるし、おかんに褒められる」

 

時間はお金で買えるけど、自信や承認欲求は努力の先にある。豊かさを求めるならば、実利にとらわれてはいけないのだ。教える側は、教えられる側以上に学びがある。